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67年、本格的にスタートしたトヨタ2000GTの生産は、
建て物が出来始めたばかりのヤマハ磐田工場で
行われました。
当時は、主力の2輪車は浜北工場が中心。
磐田で初の製品がこの2000GTとなったのです。
一台一台丁寧に、殆ど手作業での組み立て。
351台の2000GTは、全てこの磐田の地から生み出されました。
トヨタで設計がスタートしてから、一号車が完成するまで僅か1年、
市販に移されるまで3年。
新型車の開発期間としては異例に短かいのは、
トヨタ=ヤマハのプロジェクトチームの情熱、
チームワークの賜物でした。
屋根の無いオープンタイプのトヨタ2000GTは、
映画「007は二度死ぬ」で、ショーン・コネリーと共に
スクリーンを駆けました。
日本を舞台にした007作品の構想で、プロデューサー
アルバート・ブロッコリの目に留まったのが2000GTでした。
しかし映画のためには、俳優の顔が見えるようオープンに
という依頼から、トヨタが2台だけ製作しました。
世界レベルの性能の証明へ。2000GTは、
当時の市販車スピード世界記録に挑戦しました。
発売前の66年10月、足掛け4日・78時間に渡って敢行された、
スピードトライアルで一周5.5㌔のバンク付きコースを、
5人のドライバーが交代で、燃料補給やタイヤ交換以外は
止まることなく走り続けました。
78時間、一万マイル=1万6000㌔走行の平均時速は206.3㌔。
3つの世界記録と13の国際記録樹立は、高性能の証しとなりました。
さらに2000GTは、レースにも参戦し、破竹の快進撃を見せました。
67年4月に富士スピードウェイで行われた日本初の24時間レースでは
スタート直後から2台の2000GTが圧倒的な速さでコース上を支配。
夜の闇、突然の雨や霧も78時間スピードトライアルで鍛えたマシンには
敵とはならず、見事な1-2フィニッシュを果たしました。
しかし、輝かしい歩みを印したトヨタ2000GTは、生産は僅か3年で
打ち切られることになってしまいました。
利益を度外視したクオリティ、手作りの手間による高価格で、
販売は壁に突き当たってしまったのです。
67年から70年の3年間で作られたのは、わずかに351台。
トヨタ2000GTは、まさに幻の車となりました。
(引用元)
http://www2.satv.co.jp/satv_midnight/contents01.php?id=2&recid=40